滝沢市にある個別指導塾 ― 盛岡市近郊・滝沢市・雫石町 ―

こかげ庵の気まま綴り

僕の成長学習曲線 中学編。

 

僕の成長学習曲線 中学編。

 

自分の回想録第2弾。

今回も誇張も謙遜もせず赤裸々に綴っていきます。

 

小学校の頃がハチャメチャ過ぎて、中学時代の素行面はあまり印象に残っていません。

素行面が印象に残っていないということは、問題行動的な発達障害っぽさは少しずつ落ち着いていったんだと思います。

 

成績は40人位いたクラスの中で、20~30番の順位をウロウロ(学年順位ではなくクラス順位です)。小学校の時から課題を一切せずに過ごしてきたので、応用・発展問題が分かるようなアタマはありませんでした。

 

中2の2学期。

親から「クラスで10番以内に入ったらビデオデッキを買うよ」と言われ(当時ビデオデッキはかなり高価なものでした)、それまでの人生の中で一番やる気を出しました。

 

とはいっても相変わらず家では勉強せず、クラスの頭の良い友人に教えてもらったり、暗記ものはテスト前にひたすら呪文のように唱えたりして、見よう見まねでとりあえずカタチだけ作ったような感じでした。

・・なにせ今後のためではなくビデオデッキのため。瞬間的に結果が出ればそれで良しだったので(笑)

 

中間テストは目標未達。期末テストでクラス順位が9位か8位になりましたが、点数も学年順位も通知票の結果も全く覚えていません。前述の通りクラス順位だけが重要だったので・・。

 

担任の先生から順位を教えてもらった直後に「やったー!ビ!デ!オ!ビ!デ!オ!」と叫びながら教室内を走り回った記憶だけは鮮明に残っています(このへんも今でいうADHDがゆえなのか、単に幼かっただけなのか)。

 

その後またやらなくなったので、結局それが中学時代の最高順位でした。

 

 

でも面白いもので、小学生の頃は中卒で働こうと思っていたのに、中3くらいになると高校に行きたくなってるんです。しかも盛岡の高校に(当時僕にとって盛岡は都会でした)。

 

それに、みんなより遅いかもしれないけれど成績に対する「競争意識」や「プライド」みたいなものが徐々に形成されてきて、周りも気になり始めてきて・・やっぱり思春期って、心の変化の時期なんだなって思います。

 

高校は、優しかった従兄が通っていた高校で、その従兄の「自由な校風だからともちゃん(←僕の当時の呼び名です)に合うと思うよ」という一言が決め手となり、盛岡四高を目指しました。現状の自分の成績なんてそっちのけで。

 

 

中3の10月、盛岡市内の中学に転校しました(自営の事業が倒産して土地も売却した関係で)。

そして12月くらいになると、これまたみんなより遅いかもしれないけれど「受験生」の自覚が芽生えてきて、ようやく家でも教科書を開くようになりました。

 

それというのも、2学期末の三者面談の時に担任の先生から「澤田くんの成績では四高は到底無理です。変えた方が良いです。」ときっぱり言われたことが、ある種の原動力になったような気がします。

 

滑り止めの私立受験も強く勧められましたが、「そんな志望校を落ちる前提の受験、誰が受けるか!」と頑なに拒絶して(まぁ経済的なこともありましたが)自ら背水の陣に追い込んでしまったこともあって、おしりに火がつきました(笑)

 

FM放送や音楽を聴きながら、深夜の1~2時くらいまで、時には朝まで、最後の追い込みをしていた記憶があります。

 

で、入試の結果は自己採点で7割ちょい。当時は5教科300点満点で、221点?だったような気がします。今だったら入れなかったと思います。でもその当時はちょうど四高の合格偏差値レベルが下がっていた頃で、運よくギリギリ合格したんだと思います。

 

 

ということはですよ?

 

高校受験で必死こいて勉強して、7割しか取れなかった(つまり卒業時点で中学の内容の3割は間違いなく分かってなかった)人間が今、中学生や高校生に教えているわけです。

 

不思議ですよね。。

こういう仕事をしているからには「中学の頃から成績優秀でした」とか「神童と呼ばれていました」とか言えれば良かったんですが(笑)

 

・・でもここに「成長学習曲線」の妙があります。

 

 

というわけで、僕の中学時代の成長学習曲線は思春期の成長を経て、ようやく上向きになった感があります。でも、これからまだ上がっていくんです。心の成長とともに。