僕の成長学習曲線 高校編。
僕の成長学習曲線 高校編。
赤裸々回想録第3弾。いよいよラストの高校編です。
小学校はハチャメチャ。中学校はほぼ真ん中の順位。おしりに火がついた勉強でなんとかギリギリ進学校へ。そして自宅学習は再びゼロリセット・・笑。
でも自宅学習はさておき、1年の頃は割と真面目に授業を聞いていた気がします。
英語の先生の授業がすごく自分に合っていて、毎回楽しく、集中して授業を受けていたこともあって、英語だけは中学に比べて格段に伸びました。僕の英語の基礎力はその先生のおかげと言っても過言ではありません。
逆に言うとそれくらい中学修了時点での僕の英語力は悲惨だったということでもあります。
つまり、「中学時点の学力では今後がどうなるかは判断できない」ということ。
きっかけ次第で、まだまだ伸びるということです(後述しますが数学に至ってはもっと伸びました)。
2年になってくると、当時の自由な校風もあって真面目な人たち以外はみんなダラけてきます。
僕も不真面目な方だったので類にもれず、嫌いな授業はひたすら寝る・・毎日4時間めはこっそり早弁(昼休みソッコーで体育館に行ってバスケするため)・・各種スポーツに音楽、将棋に麻雀に天体観測・・自由闊達に遊びました。
今の進学校に通う高校生を見ていると、いつ遊ぶんだろう?と心配になります。課題も有り得ないくらい多いし。「もっともっと遊べばいいのに!」・・と声高に言いたくなりますが無責任なことも言えないので我慢しています。
話を戻すと、そんな自由奔放な高校生活のなか僕の成長学習曲線は上がっていきます。
高校3年。
友人A君は数学が得意でした。
友人B君は僕と同じくらい。
僕とB君はよくA君に数学を教えてもらっていました。
そうすると、A君の説明を僕とB君が聞いて、先に分かったほうが得意気にA君の側に回って一緒に説明し始めるわけです。「お前、そんなこともわかんねーのかよ」と。さっきまで同じように悩んでたくせに。
仲良しなので、B君が分からないと僕もトコトン考えます。分かるように教えるために。
たまにA君も分からない問題に出くわすと、最初に分かって2人に得意気に教えたろうと更にトコトン考えます。
こうやって、友人とわちゃわちゃしながらも常に”悩み考える場”があったことが幸運でした。
そうこうしているうちに、
「あ、これってこういうことか!」
「難しく考えてたけど、とってもシンプルじゃん」
「あ、これもそうか!」
「難しく書いてるだけで、これとこれを組み合わせただけだ」
数学のツボというのか、基本的な何かがストンと自分の腑に落ちて、そこからは連鎖的にストンストンと落ちていく・・テトリスやぷよぷよやモンストみたいに・・そんな感覚を覚えました。
雑然としていた自分の頭の中が「この単元の基本部分はここ」というふうに”必要最低限の事柄”が綺麗に整頓されていきました。他の教科も。
ちなみにこの”必要最低限の事柄”というのがポイントで、もともとたくさん覚えられるタイプではないのに、整理しないまま覚えようとしていたから理解もできず頭に入らなったわけです。
”断捨離”の如く必要最低限のことだけ整理して頭に入れていくとストンと落ちる・・それに気づいたのでした。
ここに至るまで相変わらず家での学習時間はゼロ。つまりこの”気づき”は学習量とは関係なく突然やってきました。そしてこの”気づき”のあと勉強が面白くなって、家でも勉強し始めました。高3の夏にしてようやく自宅学習が定着、です。
腑に落ちる感覚はとても不思議な感覚で、ストンと落ちたら最後、忘れることはないし、どんどん応用問題にも使えるようになるし・・いつの間にか、全国共通模試で数学は満点を取るのが当たり前になっている自分がいました。
結果、大学受験の共通一次試験(今のセンター試験)では、数学で満点、英語で9割弱、他の教科も8割がた取って、大学に進学しました。
文章にすると最後はとてもあっけないです。
”気づき”というのは気づいてしまえばあっけないものですからね。
ただ、”気づいた”だけでは恐らく何も進まなかったと思います。
それに加えて自分の中で”心の成長”があったからこそ、それまで全く出来なかったことが出来るようになっていった・・のだと思います。
そして今。
そのとき整頓されて腑に落ちた”必要最低限の事柄”を使って指導をしています。
もともと教育の仕事に携わっていたわけではないので、もう何十年もそういう知識を使っていなかったのになぜか忘れていなかったという摩訶不思議。
腑に落ちるってすごいことなんだなと我ながら驚いています。
・・総括に続きます。